ダイバースリーダーシップ推進協会 ブログ

ダイバーシティと多様性を強みに変える組織作りコンサルティング 育成のプロ集団、ダイバースリーダーシップ推進協会のブログです。

利他主義の実践について

利他主義の実践について」

 トランプ政権発足後、矢継ぎ早に大統領令が発令された。メキシコとの国境への壁建設、オバマケアの見直し、

TPPからの離脱、中東・北アフリカ7カ国の合衆国への入国制限など読者諸氏はすでにご存知の措置です。

 

 これら一連の流れは、自国優先の内向きの方向で、オバマ政権下のアメリカ合衆国の方向性とは

明らかに異なった考え方であり、欧州の右傾化と同様に加速しているように見えます。

 この動きは、今の危機や問題の責任は他者(=他責)にあり、その元凶である他者を排除するという、

「排他的」な世界観と言えるでしょう。

 

 排他とは文字通り仲間以外の者すベてを退けて受け容れないことであり、変化が激しく情報が一瞬にして

世界を駆け巡る現代において、異なる視点や知恵、経験、技術を排除することは、新しいアイディアや

イノベーションは起こりにくく、中長期的な結果としては閉塞感に繋がることは想像に難くないのではないでしょうか。

 

 今日は、他者を排除するという考え方ではなく、他者を受け容れる、さらに一歩進んで他者のために考え、行動する

「利他」について考えてみたいと思います。

 

【利他を重んじる教育】

 皆さんは、本日のテーマである「利他」を掲げて教育を行っている教育機関が日本にあるのをご存知でしょうか? 

 先日、APU(立命館アジア太平洋大学)の応援団のキックオフ&新年会に参加させていただきました。

総勢70名くらいの参加者だったと思いますが、半分がAPUのOB、残りの半分がAPUを応援する社会人で、

APUをもっと知ってもらうために何ができるか?をディスカッションする場でした。

 

 冒頭、横山副学長よりご挨拶があり、その中でAPUの理念として以下のようなメッセージをいただきました。

“異なる文化と価値観の違いを認めて理解し合い、自由で平和な世界を築く「世界市民」を育成する。

これが、APUの目指す「自由・平和・ヒューマニティ」「国際相互理解」「アジア太平洋の未来創造」である。”

(概要を咀嚼して記載)

 

 この中で、副学長が上記を実現する上で重要な要素として強調されておられたキーワードが、「利他」でした。

利他を辞書で調べると以下のような解説になります(大辞林)。

 1 他人に利益となるように図ること。自分のことよりも他人の幸福を願うこと。

 2 仏語。人々に功徳・利益 (りやく) を施して救済すること。特に、阿弥陀仏の救いの働きをいう。

 

 参加者はこの考え方を活用し、今の自分自身の利益とは直接関係がない、「現役の学生がいかにしてもっと成長

できるようにカリキュラムを進化できるか?」を、あるいは「これから入学を希望する人たちが、この素晴らしい環境を

いかにしてもっと知ってもらえるか?」を、利他の精神で議論しました。

 

 APU関係者の皆さん、OBの皆さん、そして私も含め応援団の皆さん、更には議論を通じて地元である別府の皆さんも、

とてもAPUを愛しておられることがひしひしと伝わり、APUの理念をいかにして、浸透、実践、進化させることが出来るか?

を真剣に議論する非常に刺激的な良い場でした。

(APUについてご興味のある向きは、こちらを参照されたい。http://www.apu.ac.jp/home/about/

 

 

【情けは人のためならず】

 日本の有名な諺ですが、改めて意味を調べてみると、“人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、

やがてはよい報いとなって自分にもどってくる、ということ。誤って、親切にするのはその人のためにならない

の意に用いることがある。”(以上、大辞林より)

 

 諺の通り、まず他人のことを親身になって考え、相手のためになることに知恵を絞り、行動すれば

新たな視点や発想を持つことができ、知識や経験が増え、志を同じくする仲間が増え、異なる能力・発想・経験に

出会うことにより、自分一人では達成できない素晴らしい成果を味わうことで気がついて見ると、関わった全員が

大きく成長することになる。まさに「情けは人のためならず」ですね。

 

 しかし、皮肉なことですが、最近のアメリカや、欧州の傾向は、どうも諺の誤った解釈

(=親切にするのはその人のためにならない)、更には「自国の利益にならない」になっているように見えますね。



【Pay it forward(=受けた恩を次に渡す)の発想】

 2000年にアメリカで制作された映画のタイトルですが、内容は11才の少年トレバーが、社会科の授業で

「今日から世界を変えてみよう」という課題を出されます。

 トレバーが考え付いた奇想天外なアイデアは、人から受けた厚意をその相手に対して

恩返し=“ペイ・バック”すると当事者間のみで完結して終わってしまうと考えます。

 

 他の誰かに違う形で先贈りして善意を広げていく=“ペイ・フォワード”、すなわち、

この“厚意”を受けた相手に返すのではなくて、次の人に別な形で『渡して』みたらと考え、1人が他の3人に善行をし、

それが幾何級数的に増えるという発想です。まさに「利他」を地で行った発想です。

 結末は予想とは異なるものですが、トレバー少年のアイディアは世の人たちを動かします。

 

 もちろん映画と現実は異なるかもしれませんが、天台宗の開祖、最澄の名言にも

”一燈照隅 万燈照国”(=一人ひとりが自分の身近の一隅を照らす。それだけでは小さいあかりかもしれないが、

その一隅を照らす人が増えていき、万のあかりとなれば、国全体を照らすことが出来る)というものがあります。

 

 筆者が本日のテーマで申し上げたいことは、APUの例しかり、映画の例もしかりで、利他主義はボランティア精神ではなく

本気で実践すれば世界を動かす原動力と成り得るということです。

ただし、信じること、疑わず継続することが重要だと思います。

 

人間関係の基礎は信頼関係であり、信頼とは他者に期待するのではなく自ら相手を信頼することで、

相手の信頼を得るものですね。

今日から出来る「利他」をペイ・フォワードしてみませんか。

 

金杉リチャード康弘

ダイバーシティは大切だ…まあ、そうだよね。。

ダイバーシティは大切だ…まあ、そうだよね。。

 

 「スッキリしない”何か”」を考える

 

「個々人が大切にされる職場」「すべての人が働きやすい職場」、、

ダイバーシティの重要性が叫ばれて久しく、

ダイバーシティを推進する立場に指名された人も、
推進対象として指名された部門の人もまず思います。

ダイバーシティは大切だ…まあ、そうだよね。。」

…が、”何か”がモヤモヤする。

誰かが、どこかに「すっきりしない”何か”」を抱えたまま取り組みが始まる。

そして”何か”が突破できず、いまひとつ浸透していかない。。

ダイバーシティを推進されている様々な組織・立場の方々からご相談を受けることが増えてきています。

今回のメルマガではその多くに共通するお悩みについて考えてみたいと思います。



ダイバーシティにまつわる2つの誤解(もの足りなさ)

さて、ダイバーシティに関する「すっきりしない”何か”」を伺ってみると、

次の2つの点で「それも良いんですが、それだけでしたっけ?」と、「もう一歩」踏み込みたくなることが

多いようです。

(1)「ダイバーシティとは、”そうあるべきもの(義務)”である」

「職場において個々人が大切にされるべきである」「職場はすべての人に働きやすくあるべきである」

確かに一面その通りではあり、面と向かって異論を唱える人は少数派かもしれません。

法的側面でも、男女雇用機会均等法は言うに及ばず、女性活躍推進法の成立により

「①自社の女性の活躍状況の把握・課題分析、②行動計画の策定・届出、③情報公表」などを行うこと

が義務化されました。(※)

(※301人以上の労働者を雇用する事業主が対象、H28年4月1日より。厚労省リンクはこちら

しかしこの義務感がかえって「ダイバーシティって要は女性を増やせばいいんでしょ?」といった

思考停止を生んでいませんか?

特に、自分達の組織・職場が置かれた経営環境から、具体的で・切実な「そうすべき理由」や

「実現したいこと(目的)」を語れますか?

(2)「ダイバーシティ推進とは、”対象となる誰か”の”ため”にするものである」

さて、「そうすべき理由」や「実現したいこと(目的)」を設定する際に、ぜひもう一歩踏み込んで

いただきたい点があります。

過去記事(ダイバーシティの本質は「少数派の許容」ではない)でもお伝えしましたが、

ダイバーシティ = 少数派である異分子を多数派が許容する(多数派に同化させる)こと」、

ダイバーシティ推進施策 = そのために、”少数派に用意してあげるもの”」と考えてしまうと、

少数派側がその能力を十分に発揮することが難しくなるばかりか、

多数派側にも「自分たちが何かを我慢・負担している」という意識が芽生えかねません。

 

「少数派を多数派が許容する」ではない、ということは
「多数派が少数派に合わせてあげる」ということでもありません。

 

議論の取り掛かりとして「女性」や「外国人」といった観点から入ること自体を否定するものでは

ありませんが、むしろそのことを通じて、「多数派(と思われていた人達)」も含めて「1人1人」

と向き合い、組織全体の新しい可能性を見出すことが重要だということです。

 

例えば:

  • 長時間労働が望ましくないのは、また柔軟な労働時間の調整が望ましいのは特定の女性群だけでしょうか?
  • 指示や責任・役割分担を具体的にしてほしいのは外国人だけでしょうか?
  • 他にも、「細やかな気遣いは女性のもの?」「柔軟な発想は若い人のもの?」「日本人のニーズに気づくのは日本人?」等々、そういう傾向が見られることも仮にあるかもしれません、それだけでしょうか?それでいいんでしょうか?

無意識の偏見をなくすにはーアンコンシャス・バイアスに打ち勝つ方法もご覧ください)



改めて、ダイバーシティとは

さてつまり、ダイバーシティとは

  • 法や社会的責任等からの要求(べき論)を超えて
  • 「多数派/少数派」という枠組みにも捉われず(各個人が異なるものとして等価であり)
  • 個々人それぞれが異なった個性・背景をもっており
  • その違いに興味を持ち、受け容れることを楽しむことで
  • これまでには無い発想・考え方、物事の進め方、技術・知識を取り入れ
  • 組織力の総和を最大化すること

だと言えるのではないでしょうか。

 

そして、ダイバーシティ推進施策とは、
(もちろん施策・制度等にはある一定の前提・枠組み・強制力といったものが附随しますが)
個々人が、その時々に、常に自分の100%が出し切れるよう調整できる、柔軟性・弾力性のあるものであることが

重要となってきます。

(働き方改革と多様性)※※12月27日配信ブログ近日掲載予定

 

ひとくくりの集団としてまとめられた「マス=mass」としての「みんな」ではなく、
文字通りの意味で「1人1人」と向き合うことであると気が付いてようやく
「なんとなく大切そうなので、あったらいいもの」から「腹を据えて議論・実現すべきもの」へと、
「議論すべき”何か”」があぶりだされるようになる気がしませんか?

 

矢嶋一郎

均質化からの脱却(—日本柔道の挑戦)

均質化からの脱却

 

 2017年明けましておめでとうございます。

本年最初のメルマガは日本柔道界の挑戦について考えてみたいと思います。

 

 日本の国技、お家芸と言っても過言ではない、柔道。

しかし、ここ数年弱体化が進んでいました。

この経緯については、2013年にブログ記事を書いていますので、よろしければ、

2013年の拙著ブログ 「全柔連は何を間違えたのか?」 をご参照ください。

 

 柔道には、世界柔道選手権大会(1956年〜)、オリンピック(1964年〜)の2つの世界大会があります。

この2つで日本は常に世界トップの成績を残して来ました。

 特に、男子柔道では、体重別制度が導入される以前、無差別トーナメント制のみの開催だった1961年の世界選手権を除き、

2つの世界大会に於いて常にメダルの多数を勝ち取って来たのです

 しかし2011年の世界選手権では、フランスに金メダル数で負け、2012年のロンドン五輪では男子金メダルゼロという、

未曾有の結果となりました。

 当時、この結果は衝撃をもって受け止められ、メディアによって様々な検証が行われました。

監督体制の変化とコーチの削減、基礎練の量に寄った練習による選手の過度な疲労、世界の
”JUDO”やルールの変節への対応の遅れ、、

 報道記事のタイトルには「なぜか金がとれない、、、男子柔道。日本柔道の方向性は間違いないのか」文芸春秋社 Number 2012年)、

「日本柔道、ロンドン五輪『惨敗』の真相」集英社 Sportiva 2012年)など、「日本柔道」という言葉が並んでいます。
 2011年当時、正にこの言葉に現れているように、柔道の発祥国である日本では、その誇りから、「日本の」柔道はこうあるべき、

という考えがベースにあり、柔道に関わる全員がその伝統的精神を正しく理解し実践する、という、いわば「均質化」

に重きがおかれた育成が行われていたようです。

 

 ロンドン五輪後、男子柔道の監督は現在の井上康生監督にバトンタッチされ、井上監督が、様々な改革に着手しました。
この中で、DLAとして特に注目したいのは、日本柔道という大看板に於ける均質化(世界のJUDOがどうであれ、

日本柔道はこうあるべきという考え)から多様化への挑戦です。

 実際の取り組みなどを踏まえ、考えてみたいと思います。



自らを客観視する

 2012年当時メディア等で紹介された全柔連の幹部や専門家のコメントの代表的なトーンは、概ね以下のようなものでした。

 

「以前ほど勝てない理由は、ルールの改正が問題だ」
「今の選手の精神が弱いから」

「勝てない選手は日本伝統の柔道が十分に習得できていない」

 これをみると、他責や精神論が優先していたように思われます。

真の課題は、日本柔道の世界での実力・位置づけ、本質的な課題に正面から向き合えていなかったことにあったのではないでしょうか?

 

 この点に井上監督がどのように切り込んでいったか、日経ビジネス誌 2016.10.17号の編集長インタビュー「柔道を窮め、JUDOを制す」

が読み応えがありましたので、一部を参考に要約し、以下ご紹介します。 

 前提として、日本の伝統的な柔道と、世界大会・オリンピックで行われるJUDOは別の競技であること、

現代JUDOは、技術力と体力、そして勝つための戦略的な心構えが必須であること、そして、それらは、

日本柔道がそれまで大切にしてきたものと、少し観点が異なるという事実があり、それを深く理解し、

受け容れる必要があったそうです。

 

 伝統的な柔道は技術力を最も得意とし、美しい柔道・一本勝ちにこだわります。

しかし、体力については、基礎練だけで鍛えられない部分に外国人選手に比べて劣る部分があり、

心構えも、いわゆる精神論ではなく、”勝つために必要なメンタリティ”(自分と相手の実力を客観的に理解する思考性、

試合の戦略的な運び方、量ではなく意味ある練習に取り組む考え方など)に弱点がありました。これらについて、

それまでの練習では必ずしも着目されて来なかったと言います。

 

 

柔道とJUDOの違いを受け容れる

 

 そもそもJUDOとはどのようなものなのでしょうか?

世界標準としては、レスリングの一種であるCACC、ロシアのサンボ、ジョージア(旧グルジア)のチタオバ、

モンゴルのブフ(モンゴル相撲)、ブラジルのブラジリアン柔術など、様々な格闘技のルーツの複合体がJUDOであるようです。

(出典:GONG格闘技 2012 10.23 No.244)

 

 井上監督は、「我々はJUDOを目指す必要は無いが、JUDOを研究し知り、良いところを認める必要がある」といっています。

そして、JUDOのこうしたルーツと各ルーツを背景に独自のJUDOが作り上げられた経緯を、選手と共に研究したのです。
 単に、「ルールが日本選手に不利」、「逃げ回って勝負しない柔道は柔道ではない(リオ・オリンピックの100キロ超級の決勝戦)」

という考え方ではなく、違いを理解し受け容れることで、自らが取り組むべき課題が見え、その克服に対し、

どのような「意味のある取り組み方」、「練習方法」、「試合の運び方」があるのか?を徹底的に考えることが重要なのですね。

 

 事実、井上監督率いる日本柔道チームは,2013年以降の世界大会では、獲得メダル数首位を奪還、

さらに昨年のリオ・オリンピックでは7階級全てでメダルを獲得することができました



正しい問いを立てる

 「なぜ、今の選手は日本の柔道をもっと精神面も含め極めないのか?」が、
最初の問いだったとしたら、今回の復活は成し得なかったのではないでしょうか?

 それを裏付ける事実として、世界中の選手は日本に学びに来て、日本柔道を学び、各選手の特徴も研究しているそうですが、

その逆、日本の監督や選手が世界の柔道を学びに行くことは、それまで少なかったようです。
 しかし、JUDOは変遷し、各国、各選手の実力もどんどん進化していました。

 

 「なぜ、日本柔道は以前のようにメダルを取れなくなったのか?、その真の原因は何か?」という問いであったから、

井上監督はイギリスで指導者として学び、他国を知る取り組みを実践しました。

 自分の現状の実力を理解し、相手をしっかり研究し、JUDOを理解することで、今の日本選手団に足りないこと、

その差を埋める取り組み、柔道の良さをいかにJUDOへ融合させるかを具体化して行った結果なのですね。

 

 このように、物事に正しく取り組み、結果を出すためには、スタートとして、「正しい問いを立てる」

ことが非常に重要なのだと考えます。

 DLAでは、多様性最大化のアプローチとして「5A’s(ファイブ エーズ)」という方法論を開発しました。

 この方法論の中では、「正しい問いを立てる」ことを、キーとなるステップと定義しています。

新年の新しい取り組みに活用いただきたいと思います。

詳しいご紹介をご希望の方は、是非お問い合わせください。

 

金杉リチャード康弘